FUDGENA

 

洋服を着替えるように、インテリアを変えるように、
気軽に自由に、アートを飾るのはどうだろう。

アート一枚で部屋の雰囲気はガラリと変わるし、
さらにその絵に〈物語〉があれば、いつもの空間がもっと素敵になる。

 

あなたの部屋に飾るとっておきの一枚を、
その絵からインスピレーションを受けて生まれたショートストーリーを添えて。

 

◆今日の一枚:フランク・ステラ『Your Lips Are Blue』

 

【アクアブルーの指先】

曇り空の下のプールサイド。塩素の匂い。

 

太陽を隠す厚い雲と時折吹く秋めいた風のせいで、水に濡れっぱなしの体は足先からどんどん冷えていった。

こんな日にプールの授業って、ほんと最悪。

 

隣のレーンでは50メートルの水泳テストを早々に合格し、残り時間を自由に遊ぶ生徒たちの楽しそうな声が響いている。

キャッキャとはしゃぐ彼らのたてる水飛沫が降りかかるなか、クリアできるあてのない水泳テストの順番を体育座りで待っているこの時間のなんと惨めなことか。

水面にぷかぷかと浮いた赤と青のコースロープが泳げる人間と泳げない人間をくっきりと分けている。

 

冷たい風が吹き、濡れた体が震え上がる。

膝を抱えた両腕には鳥も顔負けな立派な鳥肌。

これじゃ水中の方がまだ暖かい。

 

再び強い風がいたずらに吹く。

隣に座っていた子が風を避けるようにして、風下にいるわたしの方に顔を向けた。

隣のクラスの地味な女の子。話したことのない子だったけれど、寒さに耐えるそのかわいそうな姿に思わず話しかけずにはいられなかった。

「唇、なんか青いよ」

その子は真っ青な唇を震わせながら、小さく丸めた体を抱え込むようにしてうずくまった。

 

そのちょこんと出た足の指先に、青いマニキュアが塗られていた。

大人しそうな彼女の雰囲気とは不釣り合いな、ぱきっとしたアクアブルー色。

足の爪を見つめるわたしの視線に気づいたその子は手で隠すようにして、

「お姉ちゃんに塗られたの」

と言い訳するみたいに呟いた。

 

ピッピッ。先生の笛が鳴る。

「ああ、残念。もう一回」

50メートルを泳ぎきれなかった子が体を引きずりあげるようにしてプールから上がり、再び列に並び直す。濡れた体から滴った水がプールサイドのコンクリートを濃い色にする。

じゃあ次。位置について、ヨーイ。ピーッ。

 

大人びた綺麗なアクアブルーのマニキュアと、俯く水泳帽のこめかみのあたりに書かれた「二階堂」という珍しい苗字でわたしは思い当たった。

「お姉ちゃんって、もしかして三年の二階堂先輩?」

二階堂さんが小さく頷く。

 

この学校で二階堂先輩を知らないって人はおそらくいない。

可愛くて細くておしゃれで、一番人気の先輩。

勉強もできて常に成績トップ、おまけに水泳部のエース。

きゅっと口角の上がった唇はいつもほんのりピンク色で、二階堂先輩が使っているブランドのリップを真似する後輩女子も多い。

 

ピンク色の唇で微笑みながら水泳部のカバンを提げて颯爽と歩いていく二階堂先輩と、隣でこうして唇を真っ青にしながら水泳テスト落第者の列に並ぶ二階堂さん。

姉妹の二人はとっても遠いように感じる。

「いいなあ、あんなお姉ちゃんがいて」

褒めたつもりだったけど、二階堂さんは困ったように首を傾げただけだった。

 

半分溺れながら泳いでいた生徒が真ん中あたりで突然ガバッと水中から上がった。

ゴホッ、ゴホッと咳き込んでいる。

水を飲んでしまったのか、随分苦しそうにむせている。

「あーあ、かわいそう」

「大丈夫かなあ」

並んでいた生徒たちが立ち上がってプールを覗き込む。

「っていうか」

誰かがぽつりと不満を漏らした。

「こんなふうに何回もテストされても、どうせ私たち泳げないんですけど」

それに周りがすぐさま同意する。

「そうそう。別に泳げるようになりたいとも思ってないし」

「だよね。水の中って息苦しいだけだもん」

こんなの意味ないよ。意味ない、意味ない。

 

先生に助けられながらプールサイドに上がった生徒が泣き始める。

それを機に列に並んでいた皆が一斉に声を上げた。

「せんせーい、もうやめませんか」

「寒くて体が固まってきちゃいましたー」

先生が弱ったように頭を掻いた。

「仕方ないなあ、じゃあ各自休憩。やりたい人だけ並びなさい」

 

生徒たちは声をあげて喜び、プールサイドの端にかけてあったタオルへと一斉に駆け寄っていった。

「やったね、ラッキー」

わたしも立ち上がった。

しかし二階堂さんは体育座りのまま、プールをじっと睨むようにして動かない。

「どうしたの」

「わたしはやる」

二階堂さんが呟いた。その唇が震えている。さっきよりももっと青い。

「え、やめた方がいいよ。唇も真っ青だよ」

カチカチ鳴る歯の隙間から小さな声がした。

「泳げるようになりたいから」

 

周りの皆はとっくに乾いたタオルにくるまり、濡れた体や髪を拭いている。

それでも頑なに動こうとしない二階堂さんの深刻さを、わたしは笑い飛ばした。

「なんで。別に泳げなくったっていいじゃん」

ううん、と二階堂さんが首を振った。

足の先のアクアブルー色をおまじないみたいに数回なでて、すっと立ち上がった。

「お姉ちゃんが言ってた。水の中は苦しいけど自由だって」

青い唇を噛んだ二階堂さんの視線の先には、揺らめく水面が続いている。

 

二階堂さんがひとり、スタート台にのぼった。

アクアブルーの指先がスタート台のへりをぐいっと掴む。

 

位置について、ヨーイ。

笛の音がどんよりとした曇り空を切り裂く。

不恰好な飛び込みで、彼女がいまスタートを切った。

 

illustration by @emu_pics

 

カトートシ

1991年生まれ

大学時代は文学批評を専攻。

書店員や美術館スタッフ、カナダでのライター経験を経た後、

2018年よりカトートシとして活動を開始。

現在は大学で働く傍ら、カルチャー関連のエッセイや小説等を執筆。

カトートシという名前は、俳人である祖父に由来するもの。

Instagram:@toshi_kato_z

 

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