FUDGENA
洋服を着替えるように、インテリアを変えるように、
気軽に自由に、アートを飾るのはどうだろう。
アート一枚で部屋の雰囲気はガラリと変わるし、
さらにその絵に〈物語〉があれば、いつもの空間がもっと素敵になる。
あなたの部屋に飾るとっておきの一枚を、
その絵からインスピレーションを受けて生まれたショートストーリーを添えて。
◆今日の一枚:ジョルジュ・スーラ『サーカス』
【向こう岸へ渡る】
「そこの少年」
読んでいた本から顔を上げると、女の人が立っていた。
ぴったりとした服を着て、そこから伸びる手足は長くて細い。なんだか丁寧に折られた紙飛行機のような人だった。
こういうとき、普通の大人はだいたい、学校はどうしたの、とか、どうしてこんな時間に一人でいるの、とか。そういうことを聞くものだ。
だけどその人は違った。鉄棒に寄りかかりながら、こう聞いてきた。
「そこの少年。私がここからそこまで、この綱の上を渡れると思うかい」
鉄棒から僕の座っているブランコを囲む柵まで、ピンと張られた一本の綱。
細く、頼りないこの綱の上を、この人は渡るというのだろうか。
僕は黙ったまま、首を横に振った。
するとその人はニッと笑って、軽やかにジャンプし、綱の上に飛び乗った。そしてそのまま、いとも簡単に綱の上を渡り、僕のすぐそばまでやってきた。
「どう?」
ストンと地上に降り立って、その人は得意げに笑ってみせた。
駅前のにぎわい広場に突如出現した真っ赤な大テントは街の人たちをとても驚かせた。
僕らの街に、移動サーカスがやってきたのだ。
お姉さんはどうやらそのサーカス団の曲芸師で、夜の公演までの時間、ここで練習をしているらしかった。
人通りの少ない裏路地にある、鉄棒とブランコしかない小さな公園。
ここは僕の、僕だけのお気に入りの場所。
ここではいつもよりも体が少しだけ軽くなる。
だからお姉さんが現れたとき、僕は正直身構えた。
でもお姉さんは他の大人と違ってむやみに話しかけてきたり、僕を子供扱いしなかった。
ただ、ずっと綱渡りの練習をしているだけだった。
僕は読書、お姉さんは綱渡りの練習。
それぞれの時間を過ごしながらこうして同じ空間にいることが、不思議と心地良かった。
時々なら会話もあった。
といっても、あの雲がくじらに見えるね、とか、あの木1本に何枚くらいの葉っぱがついているんだろう、とか、そういう何気ないことばかり。
それでも僕は以前よりもこの公園で過ごす時間が好きになった。
その日、お姉さんは珍しく綱渡りの練習を早々に切り上げ、僕の隣のブランコに座った。
「少年はいつも何を読んでいるんだい」
僕は開いていた本の表紙をお姉さんに見えるように掲げた。
『宇宙の不思議』、僕の愛読書だ。
「へえ、少年は宇宙が好きなのかあ」
お姉さんは綱渡りの綱をくるくると手に巻きつけながら、まるでその向こう側にある宇宙を見透かすかのように空を見上げた。
僕もずっと思っていたことをお姉さんに質問してみた。
「綱渡りのコツってあるの」
するとお姉さんは笑って、コツも何もないよ、と言った。
「例えば川があって、そこに橋がかかってる。それを渡るのと同じことだよ。その橋がちょっと狭いだけで、ちゃんと向こう岸には通じているんだから」
お姉さんが僕の顔を見る。
「君だって渡れるよ」
僕は想像してみた。
目の前に流れる大きな川。そこに、綱が一本。
覗き込むと川は深く、水面に反射していろんな人の顔が見えた。
まず見えたのは、隣の席の石田。いつもの目つきでこっちを見ている。
それに、僕の体操服を隠して面白そうに笑う増田の顔。
僕の教科書をびりびりに破ってトイレに捨てた木下も、僕を無視するよう皆に指示を出す坂本もいる。
見て見ぬふりをするクラスメイトたち、話し合えば分かりあえるとただ繰り返すだけの担任、何も知らない両親。
僕の体はどんどん重くなっていく-…。
「無理だよ」
僕は膝の上の本の表紙をさすりながら言った。僕には無理だ。
「だいいち、地球上には重力ってものがあるんだよ。だから簡単に落っこちちゃうよ」
『宇宙の不思議』の表紙はざらざらとしていて、僕の手のひらに少し引っかかる。
すると黙って聞いていたお姉さんが立ち上がり、僕の正面に立った。
「少年、知っているかい。地球にもね、重力のない場所っていうのがあるんだよ」
そう言って、お姉さんは僕に小さな紙を差し出した。
それは今夜のサーカスのチケットだった。
その夜、僕はサーカスを観に行った。
カラフルな旗が連なり、ライトアップされた巨大なサーカステント。
ぽっかり開いたその入口に飲み込まれるようにして中に入ると、中央には円形のステージがあり、空中に大小の風船が浮いていた。
開演時刻になると会場内は突然真っ暗になり、一体のピエロがぴょこぴょこと登場した。
ピエロがひとつお辞儀をすると、それを合図に会場は一気に明るくなり、ラッパ隊の軽快な音楽とともにサーカスが始まった。
ものすごく背の高い一輪車がくるくると回るなか、猛獣使いがムチを鳴らすとライオンが玉に乗り、象が逆立ちをし、トラが火の輪っかをくぐっていく。
鮮やかなジャグリングに、中を舞う空中ブランコ。
そしてドラムロールが鳴り響くとステージ中央のカーテンが開き、そこからお姉さんが馬に乗って登場した。
ステージを駆け回る馬の背に乗ったお姉さんは上下の激しい揺れをもろともせずにくるくると踊ってみせ、会場が一層湧き上がる。
その後もサーカスの演目は続き、いよいよ迎えたラスト。
すべてのスポットライトが一斉に照らし出したのは、テントの天井近くに立つお姉さんの姿だった。
僕らが首の後ろが痛くなるほど反り返って見上げた高いその場所から、反対側まで渡された一本の綱。
それはまるで糸のように細く、いまにもプツリと切れてしまいそうなほど頼りない。
お姉さんが一歩踏み出すと、綱は大きくしなり、左右にぶらんぶらんと揺れた。
また一歩、一歩と進むに連れて、その揺れは次第に大きくなる。
観客は息を飲み、ただただお姉さんを見守る。
綱の中央あたりまで来たお姉さんが大きくバランスを崩し、観客は思わず悲鳴を上げる。
しかしお姉さんは両手を横に広げて体勢を立て直すと、また少しずつ進んでいく。
無数の星のようにきらめく照明、惑星のように回る大小の風船。
宇宙のような空間をひとり渡っていくお姉さん。
その眼差しは強く、まっすぐ、自分がたどり着くべき向こう岸だけをとらえている。
そしてついにお姉さんが綱を渡りきると、観客はその日いちばん大きな拍手をお姉さんに送った。
鳴り止まない大喝采のなか、お姉さんは笑顔で一礼し、幕の中へ消えていった。
翌日、僕は昨夜の興奮冷めやらぬまま走って公園に向かった。
しかしそこにお姉さんの姿はなく、待てど待てど、ついにお姉さんは現れなかった。
駅前のにぎわい広場に行ってみると、昨夜までそこにあったサーカスの大テントはまるで夢が覚めてしまったみたいに跡形もなく消えていた。
カトートシ
1991年生まれ
大学時代は文学批評を専攻。
書店員や美術館スタッフ、カナダでのライター経験を経た後、
2018年よりカトートシとして活動を開始。
現在は大学で働く傍ら、カルチャー関連のエッセイや小説等を執筆。
カトートシという名前は、俳人である祖父に由来するもの。
Instagram:@toshi_kato_z
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