FUDGENA

 

 

洋服を着替えるように、インテリアを変えるように、
気軽に自由に、アートを飾るのはどうだろう。

アート一枚で部屋の雰囲気はガラリと変わるし、
さらにその絵に〈物語〉があれば、いつもの空間がもっと素敵になる。

 

あなたの部屋に飾るとっておきの一枚を、
その絵からインスピレーションを受けて生まれたショートストーリーを添えて。

 

 

◆今日の一枚:ピエール=オーギュスト・ルノワール『ピアノに寄る少女たち』

 

【ミヤばあのピアノ】

 

夢みたいなあたたかさだ。

春の陽だまりがゆっくりとまぶたの内側に侵入してきて、自分がいま眠っているのか起きているのか、簡単にわからなくなる。

庭先で自由に咲く花々の間を二匹のチョウチョが追いかけっこをするようにふわり、ふわりと飛んでいった。

 

なんだか夢みたい。

ぜんぶが夢で、昨日ミヤばあが死んだってことも、夢なのかもしれない。

 

「ミカ!そんなところで寝転がってないで、少しは手伝いなさい」

縁側に寝転んだままごろりと振り返ると、畳の上をすたすたと歩き回り、手際よく遺品を整理する母のストッキングが見えた。

久しぶりに着た喪服のスカートが少しきつそうだ。

「ほらそこにある箱、はなれの物置に持っていってちょうだい」

母が顎でさした先には「ミヤばあ1/3」とマジックで書かれた小さなダンボールがあった。

こんな小さな箱3つに、ミヤばあの人生はおさまった。

 

夫に50歳で先立たれてから、ミヤばあは30年近くこの大きな日本家屋でずっと一人だった。

一人でもいつもきれいなワンピースをさらりと着ていた。腰なんて全然曲がっていなかった。

人って、こんなにあっさりと死ぬんだな。

ミヤばあが毎日雑巾掛けをしていたのであろう塵一つ落ちていない縁側の木目を、あみだくじのように目でたどる。

「ミーカ!」

母に言われて、私はしぶしぶ体を起こした。

 

 

玄関を出て北側に庭を抜けると、広い敷地の奥にはなれがある。

日本風の母屋に対し、西洋風の造りになっているはなれは全体的に薄暗い。

開閉のたびに軋む重い扉やお辞儀をしているように見える玄関灯がなんだか気味が悪く、子供のころは寄り付かなかった。

 

二つの取手に渡された古い木片を外してはなれの扉を押し開けると、窓から差し込む光のおかげで中は意外と明るかった。だだっ広い空間にものが雑然と置かれているが、意外と整頓されている。

足元に箱を置いて出ようとすると、積まれた荷物の間にあった、布が被された一際大きな物体が目に入った。

引き寄せられるように近づき、そっと布を取ると埃がふんわり舞い上がった。

 

それはピアノだった。茶色のアップライトピアノ。

いかにも古そうだったが、脚の付け根や楽譜留めに凝った装飾がされていて貴婦人のような美しい佇まいをしていた。

 

ひとさし指で鍵盤をそっと押してみる。

音は鳴らなかった。その横の鍵盤も、横の横も。

内部のパーツが空振りするような、ボコンという抜けた音しかしない。

どうやら壊れているらしい。

 

横長の椅子を引き出してピアノの前に座ると、昔のことが自然と思い出された。

それは、ピアノを習っていた頃のこと。

自分でやりたいと言い出したのか、両親が習わせたかったのか、とにかく物心つく前から私はピアノを弾いていた。

 

けれど中学生になると、私なんかよりも上手な子がクラスにはたくさんいた。合唱コンクールの伴奏を決める時だって、元気のいい筍みたいに天高く挙げられたいくつもの手を黙って見ているだけだった。

結局、高校に上がる前にピアノは辞めた。

 

ピアノ、好きだったんだけどな。

そっと鍵盤の上に指を置くと、手が覚えているのか、指が不思議と自然と動いた。

一番好きだった、あの曲。

ボコン、ボコンとしか鳴らないけれど、鍵盤を叩く懐かしい感触が古い友達との再会のようだった。

 

一曲弾き終わり、いつのまにか入っていた肩の力をほっと抜いたその時、後ろから拍手が聞こえた。

「なんだ、ミキばあか」

振り向くと、喪服姿のミキばあがそこに立っていた。

ミキばあはミヤばあの妹だ。二人だけの姉妹。

 

ミキばあが隣に来て言う。

「ドビュッシーの《夢》ね」

「音出ないのに、よくわかったね」

ミキばあが微笑む。

「子供の頃ね、よくミヤちゃんとピアノを弾いたの」

ピアノに触れながら、ミキばあは記憶をたどり寄せるようにゆっくり話し始めた。

「ミヤちゃんはすごくピアノが上手だった。同じ姉妹でも、私はどんなに練習してもまるっきりだめ。でも、いつもミヤちゃんがつきっきりで教えてくれたの。」

隣に立つミキばあの横顔を見上げる。

私はなんとか右手だけ覚えて、ミヤちゃんが隣で左手を弾いてくれてね。ドッビュッシーの《夢》は私たちが二人とも大好きな曲で、よく連弾をしたの」

ミキばあの垂れた目尻が遺影のミヤばあと重なった。

二人はよく似ているのだ。

 

椅子の右側をあけると、ミキばあが横に座った。喪服から線香の甘い匂いがする。

私が左手を鍵盤に置くと、ミキばあの右手がその隣に並ぶ。

二人の手は深呼吸をするように、一度ふわっと膨らむと、鍵盤を優しく叩きはじめた。

 

二つの手は近づいたり離れたりしながら、追いかけっこをする二匹のチョウチョのように、鳴らない鍵盤の上をふわり、ふわりと飛ぶ。

窓から柔らかく差し込む春の陽がほんとうに夢のようで、ミキばあのしわしわの右手も、あの頃より大きくなった私の左手も、どちらも二人の少女の手に戻り、鳴らないピアノをゆっくりと弾き続けた。

 

illustration by @emu_pics

 

カトートシ

1991年生まれ

大学時代は文学批評を専攻。

書店員や美術館スタッフ、カナダでのライター経験を経た後、

2018年よりカトートシとして活動を開始。

現在は大学で働く傍ら、カルチャー関連のエッセイ等を執筆。

カトートシという名前は、俳人である祖父に由来するもの。

Instagram:@toshi_kato_z

 

 

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